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さて、今日は何をしようかな。

2歳の甥っ子と30歳のおじさん

突然ですが、子どもってかわいい。そして、天才なのである。

 

昨日は、妹と甥っ子といっしょに買い物をしてきました。
この前会ったのは、確か一ヶ月くらい前だったのですが、すっかり僕のことは覚えていないみたいでした。
あれだけ遊んで、疲れて、抱っこして、僕のシャツに涎を垂らしながら寝ていたのに。

 

甥っ子は、いま2歳とちょっとくらい。
半年前までは、お母さん(妹)の姿が見えなくなるとビャービャー泣くような感じでした。
たまにちょっとだけ預かることがあったけど、泣き疲れて寝てくれるまで、そりゃ大変だったのです。

 

最近では、ちょっとずつ喋れるようになってきて、表情も豊かになってきました。
2往復くらいの簡単な会話もできるようになって、ぐんぐん成長しています。
そんな甥っ子と遊んでいて、ちょっと気になったいろいろについて書いてみます。

 

 

 何考えるのかさっぱりわからない

甥っ子が誕生してからというもの、人の成長の過程ってとても奥が深いと感じています。
自分だって当然こういう時期を過ごしてきたのだと思います。
でも、いろいろなことをどうやって覚えてきたのか、今となってはわかりません。

 

甥っ子の今のお気に入りのフレーズは「アンパンチ」。
「あ〜〜〜ん、ぱ〜んち」と叫んで、手足をバタバタさせて一人で楽しんでます。
車のチャイルドシートの上で、エンドレスリピートしてました。

 

ちょっと前までは、アンパンマンのことを「パンパンパン」って言ってたのに、いきなりパンチ出てきた。
ちなみに、甥っ子はお父さんのことをあだ名の「かったん」って呼んでます。
でも、ママのことは「ママ」って未だにいえなくて、「マ!!」って言っています。

 

「マ!!」「マ!!」

僕たちが何か新しいことを覚えようとするときには、「これがこうだから〜」と物事の関連性を重要視していると思います。
ベースとなるものがあって、その上に関連するものを積み上げたり、隙間なく詰めていったりするようなイメージです。
記憶のメカニズムには詳しくありませんが、なんとなく習慣的に系統立てて物事を考えるクセがあると思います。

 

甥っ子の口にする言葉には、ア行、カ行、タ行はよく口にするのに、まったく聞かない音もあります。
余計なお世話かもしれませんが、その違いは何なんでしょうかね。
いちばん接する時間が多く、耳にすることも多い「ママ」は、未だに言えないのが不思議です。

 

もう少し広げて見ると、子どもは何をどう感じ、どう考えて、頭のなかでどんな変化をしているのでしょうか。
当の子どもにとっては、もっと物事はシンプルなのかもしれません。
でも、大人になった私たちにとっては、「子どもって何を考えてるかわからない」という状態になっています。

 

「記憶」と「思考」の違い」

AIなどの開発や利用によって、今後の未来は大きく変わってくるのは間違えないでしょう。
従来までの「いかに膨大な量の情報から、どれだけ条件に合致するものを拾い出すか」というのは、情報処理的な発想だと思っています。
コンピュータが「自分で考える」ということは、一つ次元が違うものだと思います。

 

甥っ子はいつの間にか歩くようになって、いつの間にか喋るようになって、下手くそな歌も歌うようになりました。
ちょっと会わないだけで、びっくりするくらいの成長をしています。
単純に驚いて嬉しいと感じていますが、間近で見ていると、成長ってとても不思議なことだな〜とも感じさせます。

 

歩きたがったり、抱っこされたがったり

子どもも2歳になると、本当によく歩くようになります。
まだ左右に体を振るようなよたよたとした歩き方で、とっても可愛らしいです。
でも、いつ転んで泣き出すんじゃないかと、見ているこちらをひやひやさせます。

 

で、この前は歩いているときに、なぜか急に立ち止まって地面に座りこみました。
上半身をあげて、僕に向かって両手を広げてアピールするんですよ。
でも、「はいはい」って言いながら抱っこしたら、ばたばたし始めて、降ろすとまたよたよた歩き出すんです。

 

恐怖のヤダヤダ期となんでなんで病

3歳くらいになると、ヤダヤダ期に入るんだそうです。
で、それを過ぎると、今度はなんでなんで病にかかって、親の手を煩わせるんだとか。
この前の行動も、ヤダヤダ期の前触れだったりするんでしょうかね。

 

そういえば、この前はとってもよく暴れるので、時々顔を殴られました。
でも、「痛い」と言っても伝わらないし、「ごめんなさい」も伝わりません。
良いこと悪いことはもちろんわからないし、もっと言えば日本語は伝わっていません。

 

怒るとやめてくれるのですが、きっとこれは相手の表情や声色で判断しているのだと思います。
なので、結局3分も経てば、同じことをし始めます。
日本語がちゃんとわかるようになるのは、もう少し経ってからみたいです。

 

結局、どうして欲しいんだろ

まあ、自分の子どもではないから気楽なものですが、お母さんの苦労は相当だと思います。
買い物の途中でいちいちこんな状態になれば、イライラするのももっともでしょう。
それに、相手は怒れば大声で泣き始める必殺技を持っている超強敵なのです。

 

こうした行動にどういう意味があるんだろうと思っているうちに、そんな時期は過ぎてしまうでしょう。
でも、赤ちゃんであれ、人の行動には意志が存在していると思っています。
この行動に対する次第点がもらえる大人の回答というのは、一体どんなものなんでしょうかね。

 

全力で遊んで、結局ガス欠

子どもの遊びというのは、いつだって全力だ。
ワイヤレスマウスみたいに「電池残量が少なくなりました」なんて通知は一切ない。
そして、あるとき突然電源が切れたように、かくっと寝始める。

 

昨日は、ひとしきり遊んでお夕飯を食べている時に、そのときはやってきました。
急にごつんと机に頭を思いっきりぶつけて、大声で鳴き始めました。
で、ママに抱っこしてもらって、泣き止んだと思ったらガン寝です。

 

家族みんなが、「え、このタイミングで!?」って思いましたよね。
せっかくご飯を準備したのに、起きてからもう一回食べさせないといけないし。
でも、寝ている子どもの前では、大人はもう平伏すしかないのです。

 

最近、全力出してる?

大人になったら、無意識に先の予定を気にして時間や体力をセーブしていると思います。
それは、組織の中で働いたり、他人との関わりあいの中で必要となることなのは間違えありません。
後先考えない行動というのは、他人に迷惑を掛けることにもなり、無責任と言われることもあるでしょう。

 

でも、そうした中で、リミッターを低く設定しすぎてるのかなと感じたりもします。
とことん集中して、一つのことをやり抜くことができなくなっているというのは、常々感じます。
もしかしたら、気にすることが多すぎて、二重にも三重にも安全装置をつけているのではないでしょうか。
さすがに、子どもを真似することはできませんが、見習うべき姿勢かもしれません。

 

もちろん、全てのリミッターを解放するようなことはできません。
エヴァが非常電源も使い果たして活動限界になった後に使徒がやってきたらどうするべきか。
なんらかの予防策や、第二の選択肢を準備するのも必要になってきます。

 

なんで全力出さないの?

じゃ、リミッターを外すためには、何をどうすべきなのでしょうか。
僕は、本当に必要かどうかをきちんと見定めるということが大切ではないかと思います。
いま抱えているあらゆるものに対して「それ、本当にないと困ることなの?」と。

 

実際、やらなくてもよいことや即時性を求められないものというのは意外に多いんじゃないかと思います。
ついつい強迫観念のように、あれもしなきゃ、これもしなきゃと考えたりしていませんか?
身の回りにいろいろなものや関わりが増えてくると、それが自分を拘束することになっているのかもしれません。

 

そんなことしてないで遊ぼうよ!

毎朝、忙しい朝の時間に洗濯をして干さなくても、週に2回でいいのかもしれません。
食材を買って、調理をして、ごはんを食べて後片付けする…
週に何度か家や職場の近くで外食をしたりして、時間や労力を浮かせても、困ることはないでしょう。

 

溢れるほどある身の回りのあれこれの効率を高めるためには、優先順位とアウトソーシングが必要です。
赤ちゃんと違って、大人には「本当にやらなければならないこと」がいくつもあります。
そのためには、頭を使って解決法を考えて、しかるべきところにしかるべき労力を充てられるように仕込みをしなければなりません。

 

「ひとつひとつをていねいに」というのは、とても聞こえがいいフレーズです。
でも、必要のないことに時間と労力をかけるのは、他に割く時間と労力を奪っているだけです。
物事に全力で取り組んで、「今日も一日よく頑張った」と思うためには、高いレベルの「断捨離」をしなければならないのかなと思います。

 

子どもの将来と習い事

甥っ子には、そろそろ何か習い事をさせようかと検討中だそうです。
別に、妹としては超一流のアスリートを育てるとか、いい学校に入れるといったテンションではありません。
それでも、多くを吸収できる時期に、なるべくたくさんのものを授けたいと思うのはよくわかります。

 

スポーツにしろ、勉強にしろ、小さな時期の教育やトレーニングの重要性はよく知られています。
トップクラスになれば、なおさら子どもの時期の経験によって大きな差がつくものもあります。
でも、多くの親にとっては、せいぜい「何かの糧になればいい」くらいだと思います。

 

経験が活かされる場所

以前、僕は飲食店でアルバイトの採用や、新入社員の研修をしていたことがあります。
たくさんの人を面接したり、OJTとしてい強く思ったのは、人の行動や思考は経験の積み重ねによるものなんだな〜、ということです。
自分ではわかりませんが、人から見れば、自分の背後にはどのようなものが見えているのでしょうか。

 

例えば、幼い頃にバレエを習っていた女の子は、とても所作や立ち居振る舞いが美しかったです。
動きにメリハリがあり、指の先まで意識が通っているのがわかりました。
他のアルバイトの子には感じられない優雅さが、何も言わずに備わっていました。

 

また、就活の終わった後の学生バイトは、やはり受け答えがはっきりできる子が多いと思います。
就活や企業の新卒採用についての是非はありますが、話題が逸れるのでここではやめておきます。
でも、人に良い印象を与えるという点において、就活を通じて意識して行うことがこれほど違いを生むのかと勉強させられました。

 

僕は、両親がとても多忙だったおかげで、いろいろな習い事をさせてもらうことができました。
保育園や小学校の後は、家に一旦帰って、それから習い事に向かうのが日常でした。
レッスンを終えて家に帰ったら、仕事から帰ってきた家族みんなでご飯を食べていました。

 

スイミング、ピアノ、習字、そろばん、英会話…
いまその道のプロになっているわけではありませんが、役に立ったと感じることは多いです。
改めて振り返って見ると、両親には感謝しなくてはいけないなと思います。

 

水泳

甥っ子の習い事について、妹夫婦に口出しをする義理はありません。
しかし、個人的には、ぜひ水泳はやってもらいたいなと思います。

僕は幼い時は喘息持ちでしたが、水泳でタイムが伸び始めた頃に自然と発作は減ってきました。
ちょうど体が成長している時期だったのかもしれませんが、強い体の礎になったと思っています。
いまでも基礎代謝がよく、甘いものやお肉が好きですが、体重が増えすぎたということはありません。

 

ピアノ・バイオリン

それから、できればピアノやバイオリンなどの楽器にも触れてほしいとも思います。
というのも、人間には、文字や数字などではない感情を表す言語として、音楽や芸術というものがあると思っています。
これは、言葉で伝えきれるものではないし、体験するに越したことはありません。

 

ただ「感受性」と言っても漠然としているし、小さい子どもには、説明してわかるものではありません。
でも、作曲者の感情の機微に触れたり、豊かな表現を求めることは、自分では体験できない出来事を何倍のレバレッジをかけて経験することになると思います。
これらのことは思考の次元を増やして、これから先の未来、人間らしさを形成するのに必要ではないかと思っています。

 

まとめ

まあ、一言でまとめると、とにかく甥っ子がかわいいのです。
何にも考えていないと、思いっきり甘やかしてあげたくなってしまいます。
でも、もしかしたら、両親以外の大人というのは、甘やかしてあげる存在なのかもしれませんね。

 

なんで幼い子どもをかわいいと思うのかと考えて見ると、多分、打算が働かないからだと思います。
だって、子どもを見たら、その子の将来のことを自然に考えたりします。
「どんな風に成長するのかな」「どんな大人になるのかな」…と。
そして、子どもの表情に対して、最初から怪しんだり訝しがったりすることはないですよね。

 

最近では、子どもを巡る痛ましい事件を見聞きすることも多いです。

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つい先日の福岡の事件も、多くの人にさまざまな感慨を与えたことと思います。
もしかしたら、1ヶ月後にはすでに人々の興味はそれているかもしれません。
もしかしたら、ワイドショーがこぞって下世話な話を、自慢するようにしているかもしれません。

 

それは、まあ、どうでもいいです。
でも、誰も最初から子どもを虐待したり、殺したいと思っている人はいないと思っています。
そうした親たちを擁護することはできませんが、よっぽど思い悩んだり、葛藤が積み重なっていたのだと思います。

 

言い尽くされているような言葉ですが、子どもには無限の可能性があります。
そして、私たちは無意識に何十年か先の未来を、その子どもの中に見ていると思います。
そう思うと、どんな子にも健やかに育って、広い世界を知ってもらいたいと思うものです。

 

幼い頃の僕も、そしてみんなも、大人の真似をして成長してきました。
でも、子どもから学ぶべきことも多いと最近では思っています。
目先のことに小手先の答えを捏造しているような背中は、可能性の塊である子どもの前で胸を張って見せられるものでしょうか。

 

僕もそうですが、多くの人間は、視野が狭くなるといとも簡単に選択を間違えます。
高く俯瞰すれば正しい答えは明白なのに、常にそれを保ち続けることができません。
子どもというのは未来を作り、そして、だんだんと視野を欠くようになった大人に、もう一度ビジョンを取り戻させるための存在なのかもしれません。